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上州のからっ風に吹かれながら

FCCU委員長、小谷さんの連載小説4回目です。
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 派遣労働者としての単調な毎日が続いた。ただただ日々を過ごし、生き抜くことだけが僕の大切な目標になっていた。毎朝、工場近くに行くと、多くの派遣労働者たちが、まるで夢遊病者のように工場に吸い込まれていった。僕の姿も当然のようにその群れの中にあった。僕は、工場の中に蔓延している油の匂いが嫌いになっていった。彼らは、この工場の中でどのようなドラマを演じているのだろう?僕は何故か、他の派遣労働者たちのことが気になりだした。
 どこで聞いたのか、僕が労働法規の勉強をしていることを聞いて、派遣労働者が僕のところに相談に来るようになった。
 遅刻したことを職長に土下座して謝ったら、安全靴でその頭を踏みつけられた若者。生産ラインから外され、次回の雇用延長はしないと告げられた若者。今は毎日掃除しかやらされないという。まさに、僕たち派遣労働者には、人格さえ認められないかのような扱いに僕は絶句してしまった。同時に、僕はどこまでドロップアウトしていくのだろうという不安でいっぱいになった。
 そんな僕に、嬉しいニュースが飛び込んできた。剣道をやっている娘が東日本の選抜大会に出場するために、前橋にやってくるというのだ。東京に来てから2ヶ月。心底逢いたかった。でも、生活費がやっとの僕にとって会いに行く交通費などはとてもなかった。
 ただでさえ質素な食生活を切り詰め、ダブルワークに励んだ。休みの日は、散財しないように部屋にこもり、勉強していた。娘に逢うことだけを楽しみに。
 新宿から高崎に向かう電車の中で、僕ははやる気持ちを抑えきれなかった。娘に逢える。そのことだけしか僕の頭の中にはなかった。
 会場に着くと、チームメイトと共に試合に汗を流す娘の姿を見つけることができた。こんなにも成長したか。久しぶりに娘の姿を見る僕は、嬉しくなった。目尻をさげながら娘を見つめている自分の存在をしっかりと感じることができた。
 休憩時間になると、多くの選手たちが大会記念グッズ売り場に群がっていた。娘の姿もあった。でも娘は、チームメイトの輪から一歩引き下がっていた。娘は、私の状況、自分が買えない立場であることを知っていたのだ。
 僕は、娘にそんな思いをさせていることが悔しかった。ポケットの中の有り金をぎゅっと握り締めた。買ってやりたい、でもこのお金に手をつければ明日からの生活ができなくなる。
 娘と目が合った。僕は何かを決意したように大きく頷いた。娘は、満面の笑みを浮かべてチームメイトの輪の中に入っていった。これでいいんだ。僕はそのことしか考えられなかった。娘は、弟たちへの土産も買っていた。
 楽しい時間の過ぎ行くのは、とても早く感じた。娘たちを乗せたバスは、みちのく路を目指して会場を後にした。僕は、バスが見えなくなるまで見送った。バスの中から娘だけが目にいっぱいの涙を浮かべながら、最後まで僕を見続けていたのがわかった。
 娘たちが去った後、早く田舎に帰りたい。派遣労働者の生活から早く這い上がりたい。そんな思いと明日からの生活をどうしようかという不安を胸に抱きながら、僕は、上州の冷たいからっ風に吹かれ駅に向かった。
 その後、およそ1年間僕は子ども達に逢うことはなかった。もちろんお金がなくて。

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2008年02月19日 小谷物語 トラックバック:0 コメント:1

ごめんな


 派遣労働者となった僕の食生活は実に質素なものだった。朝は、食パン2枚に百円均一ショップで買った紅茶。昼は工場の食堂で定食。夜は、インスタントラーメン。卵入りは、豪華なものになっていた。
 派遣会社には、前払いという制度があった。自分が働いた日数に応じて、毎週給料を前払いしてくれるというものだった。1日4000円×稼動日数分。僕は、毎週2万円ずつ前払いを利用した。そのうちの1万円は、田舎の子どもたちに送った。当然、給料日に手にする給料は少なくなる。だからまた前払いを利用する。これが派遣労働者が、貧困という蟻地獄に陥るシステムである。派遣労働者は、派遣会社にしがみついていかなければならない罠のようなものである。このまま僕は這い上がることができないのか?いつもそのような絶望感でいっぱいになっていった。
 少しでも子どもたちにお金を送ってやりたい。そんな思いから、僕はどんどん生活費を切り詰めていった。1日の支出目標は、500円だった。
 近所のスーパーに行くと、惣菜コーナーに500円のカツ丼があった。食べたかった。心底食べたかった。でもそれに手をつけると、1日の予算がそれだけで破綻してしまう。僕は、思いっきり生唾を飲んで食べたつもりと自分に言い聞かせた。
 試食デビューも果たした。栄養の摂取と空腹を満たすことを目的にスーパに試食品が陳列される時間帯を選んで出かけていった。まごまごしていると百戦錬磨のライバルたちに負けてしまうので、つまよう枝で一気に串刺しにして食べる術も取得した。腹は満たされるものの心は満たされなかった。
 ダブルワークも始めた。僕が契約している派遣会社の系列会社に登録してスポット派遣に出かけた。1回目は、事務所待機。突発で欠員が出たときに、仕事に出かけるというものだった。事務所には、僕の他に女性が1名いた。欠員が生じ、僕は、引越しの仕事に行くことを命ぜられた。現場に行くと、先方は依頼していないということだった。僕はその日は何もせずに半日分の日当をもらった。2度目は、マンション建設現場への派遣だった。現場近くのコンビニで、担当者と待ち合わせた。彼は、僕に「派遣だとは言わないでください。」と真剣に言ってきた。僕は、数分後に全てが理解できた。僕は更に別な会社に派遣されていたのだ。社会保険労務士を目指して勉強を始めていた僕にとって、このからくりの意味することは、そう難しくはなかった。でも多くの派遣労働者は、言われるがままに働いているのだろう。3回目は、運転助手。配達の助手だった。その運転者の一言が脳裏を離れない。「お宅らは、気軽な気持ちできているのだろうが、こっちは、派遣会社に1万5千円も払っているんだ。しっかりやってくれよ。」僕のその日の日当は、7千円。残りはどこにいったのだろう。
 その日のダブルワークは、午後2時に終わった。日当は、1日分出るのでありがたかった。帰路についた時、ファミリーレストランの側を通った。窓越しに、世界中の幸せを全て浴びているかのような家族連れの姿が見え
た。僕は、田舎に残してきた3人の子どものことを思い出した。
 今が一番家族の思い出が必要な子どもたち。でも僕は、何もしてやれない。晴れ渡った空を見上げ、「ごめんな。ごめんな。」僕は、何度も何度も、子どもたちに謝った。空に映し出された子どもたちの顔は、3人とも
満面の笑みを浮かべていた。
 「ごめんな。」その後子どもたちを思い出した時、この言葉は僕の口癖になっていった。

2008年02月12日 小谷物語 トラックバック:0 コメント:0

「なぜか、仰げば尊しを」

 僕の住むという部屋に案内された。求人広告には、フローリングのワンルームの写真が掲載されていた。まさかと思っていたが、案内されたのは、6畳の畳の部屋だった。「この部屋は、他の二人より広いので、家賃は月々2万4千円になります。」派遣会社の担当の男は、当然のように言ってのけた。なんと、他の部屋より、3千円も高いというのだ。東京に来て始めてその男に反抗した。「畳2枚いらないから安くしてくれ。」男は、苦みばしった顔をしながら、事務的な説明を始めた。
 僕は、のっけから地獄の底に叩き落された。男が言うには、僕が希望して上京してきた派遣先にいけるかどうかまだ分からないというのだ。つまり、ぼくは、行き先も分からないまま招聘された兵隊だったのだ。雇用契約が済めば、2万円支給するとうたい文句にあったが、派遣先が決まるまで支給できないというのだった。財布の中の1万円札がなければ、僕は、無一文で東京生活を始めることを余儀なくされていたのだった。男は何事もなかったように、部屋を去って行った。
 パンツ一枚で現れた男はすでに寝たらしく、僕は静まり返った部屋の中で、孤独感と言うおかずを味わいながら、手作りのラーメンをひたすらすすり続けた。貧乏だった学生時代にもなかった光景であった。
 採用が決まったらしく、翌朝早くその男は、再び僕の部屋に現れた。男が乗ってきたワゴン車に乗ると、北海道出身の男も乗っていた。派遣会社の作業着を渡された。なんとも粗末なものだった。その辺のホームセンターで買えば5百円くらいだろう。昼休みには食堂の前で待ち合わせをして安全靴も渡された。工場内での販売価格は、2千3百円だった。その男は翌月の給料から、作業着代として5千円天引きすることを告げて、工場を後にしていった。
 僕はあまりの現実の酷さに絶望感に溢れていった。その日の作業は、見学がほとんどだったが、何故か7時過ぎまで残業させられた。この先どうなるのだろう?そんな不安感をいっぱいにしながら、冷たい北風の吹く甲州街道をひたすら寮に向かいながら歩き続けた。何故か小さな声で「仰げば尊し」を口ずさみながら。

2008年02月08日 小谷物語 トラックバック:0 コメント:0

再び東京へ・・・派遣労働者として

掲示板の方に連載中のフルキャストセントラル委員長・小谷氏の連載小説をこちらにも載せていこうと思います。

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砂をかむような思いでしかない東京に、背を向けるように郷里に戻った23年前。もう二度と戻って来まいと誓ったはずなのに、僕は再びその一歩を踏み入れてしまった。しかも、格差社会が騒がれている真っ只中に、その象徴とも揶揄されている派遣社員として。中央線の豊田駅付近は、素晴らしく晴れ渡っていた。前日宮城の小さな田舎町は大雪に見舞われ、遅れて仕事先を失っては大変と思い、約束の時間より2時間も前に到着していた。手にしているのは、求人広告のとおりバック一つと子どもたちとの思い出がぎっしり詰まったノートパソコン1台。財布の中は1万円。これが僕の2度目の東京生活の始まりだった。2006年1月23日。派遣会社の営業担当に連絡を入れた。「もう着きましたか。これから向かいますから。」彼が来たのは、それから3時間もたってからだった。元来短気な僕だが、仕事にありつくため、じっと耐えて待った。豊田駅付近の小さなスクランブル交差点を何度も行き来した。彼は何事もなかったように迎えに来た。ワゴン車の中には、北海道出身という派遣労働者が一人乗っていた。僕たちを乗せたワゴン車は、近くの自動車工場に向かった。そこに入っていくと、僕と同じように連れてこられた派遣労働者が、30名近くいた。食堂に通され、堂々と事前面接が行われた。何も知らない派遣労働者は、素直に応じていた。一人一人が、アフリカから連れてこられた奴隷のように見えた。面接官の手には、僕が派遣会社に提出した履歴書がしっかりと握り締められていた。これが世の中の動きなのか?田舎でのんびり過ごしてきた僕にとって、そう思って妥協するしかなかった。フローリングのワンルームを想像していた寮に連れて行かれた。なんとも小汚い団地であった。部屋番号は201。中に入ると、同じ東北出身という男が、風呂からパンツ一枚の姿で現れた。この男との出会いが、将来僕に生きがいを与えてくれるとは、その時は夢にも思わなかった。

2008年02月08日 小谷物語 トラックバック:0 コメント:1

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